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梅雨入りを合図に衣替えがはじまると、着る服がないない足りないと騒ぐのが毎年の定例となっています。もちろん服がないなんてことはたまさかなく、着たいと思う服がないのです。クローゼットの中はむしろいっぱいに衣類が詰まっているのですが、その中の一つも私には似合いません。本当はフリルやリボン、レースの装飾があしらわれたお洋服が大好きなのですが、残念ながらカワイイものは全く似合いません。一度、似合わない=着られないと知ってしまうと、わざわざそれを着て街を歩くのは癪だし、残り少ない無難なお洋服で一週間をまわすことになります。無難なお洋服とはまだ似合わないとわかっていない服で、私にとってはそれが制服。マインドとしてはズダ袋でもかぶっているつもりなんですが、それは紛れもなくバブル期に流行したスーツスタイルなのです。それらを身に包むと生まれる前から着ているみたいにすっぱりと様になるのです。
バブルがはじけ日本の運勢が旺から墓へ移り始めたころに生まれ、それから二十数年経ち、人間の体にも慣れてきました。着たい服と着られる服が違うという事実にうすうす気が付いています。着たい服。それは自我の皮膚とでもいいましょうか。こうなりたいものの客体と主体がいりまじったイメージのテクスト(織物)。この手で触れられる仮想。具体的には、はるか昔に購入したカワイイセーラー襟のブラウス。真偽は不明ですが、朝ドラ女優が着用のおふれこみです。これは初めて行った下北沢で思い切って購入したシロモノで、常に懐の寂しい大学生としては、すこしばかり値が張ったものでした。当時はルンルンで大事な時にだけ着用して、カメラを向けられようものなら上機嫌にピースなんかしていました。
この服を着ている時だけは朝の似合う人間になれるような気がする。『あまちゃん』で夢をあきらめるなとゴールデンレトリバーみたいな瞳で橋本愛に熱弁する能年玲奈になれる気がする。あの瞳に映っている光が、スポットライトよりも彼女を照らす。東京であまちゃんのまま能年玲奈が見続けた夢がこの服に詰まっている。この初々しい白いブラウスに。まあるく弧を描いたセーラー襟には、金色の刺繍が施されています。お星さまやお月様や雲や飛行機の刺繍は肩から後ろへ流れて、背中の四角い額縁にあふれだしています。暴走族が背中の刺繍で人生を背負っているみたいに、私はメルヘンを背負う。このメルヘンは血のメルヘン。ただただカワイイをやっているんじゃない。本当はただただカワイイやりたかったけれど、大学生の私は自分の生活費は自分で稼がねばならんことを背負って血を吹き出しながらメルヘンをやっているのです。能年玲奈にはなれません。けれども、能年玲奈のような自我を着ることはできます。自我の皮膚を纏うこと、これすなわちお洒落と呼んでも差支えはない気がします。服を買うとはけして布を買うことではなく、新しい自我を買うことなのです。夢想を現実にするための可能性を買っているのです。
ファミレスで深夜遅くまで労働をした私は、明日は能年玲奈を着ていこうとカーテンレールにブラウスをかけました。眠る前、確かめるように美しい刺繍を触り、その時ふとほんのものごころが湧いて、ひらひらとした背中の一枚布をめくってみました。そうしたら、裏側にはひっかいたような恐ろしいお星さまやお月様の刺繍が見えました。まるで性格が分裂した子供が描いた絵のようです。なんだか急に身震いがして布団にもぐりました。
翌日、田舎の学校であの舌ったらずなカワイイしゃべり方を、マスクの下で真似していました。その時は授業中で、中国がウイグル自治区を実質的に植民地化し、住民を強制労働させているというのをやっていました。なんでもその主要な生産物が衣服らしく、ファッション業界ではその実態に抗議するべく有名ブランドの不買運動も起こっているらしいのです。そんなことは知らん顔で居間のテレビみたいに教師の講釈を聞き流しました。音が途切れたので顔を上げると、教授は教室に敷き詰められたファストファッションの生徒たちをながめていました。
その夜はムシ暑い日でしたから、夕から洗濯して干せば、夜の熱気ですぐに乾いて、きっと明朝には着られます。私はメルヘンをベランダに干しました。布団に入って一度は眠ろうとしたけれど、目の裏に金色のお星さまやお月様が降り注いでいて、興奮してちっとも眠られません。仕方がないから起き上がり、ベランダに出てブラウスを眺めます。私の住んでいる町は大学からちょっと離れた都会にあります。田舎ではアルバイトが見つかりにくいだろうという母親の懸念によって、この繁華街ほど近い格安マンションが選ばれたのです。おかげで深夜のファミレスのバイトにありつくことができたのですが、それは何かしらアルバイトをしなければ独り暮らしを維持できないことを意味しています。町は眠らず国道の音もうるさいから気が休まるということはありません。部屋が暗いのにも関わらず、マンションのベランダは、ブラウスの刺繍が繊細に目に映るほど明るかったのです。
どこからか夜風が流れてきて、排気ガスまじりの空気がメルヘンを膨らまします。働けば働くほど、夢は美しく見えます。私は文学を勉強したくて大学に入ったつもりなのに、やることといえば生活を維持するためのアルバイトです。授業中はほとんど寝ているばかりで本当の耕すべき畑は枯れていきます。ファミレスのバイトで、ソフトクリームの量で怒られました。九〇グラム以上、グラスに盛ると赤字になると何度も言われても、やはり一五〇グラム以上、不器用だから盛ってしまう。どんな崇高な教えも生活の快適さがかかっているこの仕事には勝てない。やはりうまいものはたべたい。先人たちが捻り出した知識を継承するより、当時の私にとってはソフトクリームの機械から九〇グラムきっかり捻り出しお金を稼ぐ方が大事だったのです。大学生の私は、じきにおぼんに乗せられ運ばれるように卒業、就職する予定です。生かさず殺さず大卒資格さえとれればいいという生政治に吐き気がする日々。せめてもの自身のわがままを通し続けなくては自分が何者かわからなくなります。私はカワイイものがすき。カワイイものを見ていると、動悸もやみます。薬いらず。さらにはカワイイものをまとっている私がほんのちょっとだけ好き。これは血のメルヘン。新しい自我を切り開いていかないと、なにもかも奪われてしまう。メルヘンがなければ生きていけない。
そのとき何を思ったのか、ほんのものごころで――そう本当にちょっとのものごころで、皮膚の裏側をみたくなりました。ハンガーからブラウスをとりだして、表と裏をあべこべにすると、タグがつるんと現実にあらわになりました。
MADE IN WIGGLE
星が輝いて見えるのは、思わぬ灼熱で勢いよく燃えているから。お洋服が美しいのは、自我の可能性が夢と核融合して一等つよく、遠くの空を照らしているから。遠くの空とは具体的に申しますと、中国の北西部に位置するウイグル地区あたりでしょうか。昨今のファストファッション事情を鑑みれば、メイドインチャイナと記載されているものはほとんどこの強制労働地区の生産物だと称しても過言ではないとききました。醜悪な見聞と手元にある素敵なお洋服が表裏一体の性格だと認知することは、正直なところ、とんと不可能。けして無関心なわけではなく、自分が能年玲奈にあこがれてメルヘンにあらゆる夢想を描くことと、近くて遠いの空の下の暮らしを植民地化させていることが結びつかないのです。
空の上、アフタヌーンティーをソーサーで混ぜた結果、悲惨な世界ができあがったとしても、所感と実態にはいびつな遠近感があります。イザナギとイザナミが天の沼矛を海におろして国をつくったというけれど、国なんて大層なシロモノではなく、きっとちょっとしたメルヘンを作るつもりでさやを下したはずです。
はっきり言いましょう。自我の皮膚が人権侵害によって成り立っているという事実は、私の血のメルヘンを批判しました。これまでメルヘンは私自身の苦労と相対化され、お互いをお互いのメタファーとして機能してきました。メルヘンは血であり、血はメルヘンであったのです。悲惨な事実を知ったとき、メルヘンはウィグル地区で起こる無差別殺傷や暴動で流れる血と実感の湧かないまま、両極になりました。多少の金銭さえ払えば現実から逃げられるノンキさの裏側を担うことになったのです。
私はこの夜、自我の皮膚をパッと剥ぎ取られた気がしました。現実にたちはだかりどうしても避けては通れぬように感じた生活苦が、実はイメージ体でどうにでもなる夢の中の胡蝶のように一瞬ゆらいだのです。たとい悪夢かのように感じられても、所詮は自分の中で起こっていることだと。それどころか海の向こうにある新たな血の拠点は、対岸のメルヘンな生活苦が豊かな暮らしであることをむき出しにしました。はがされ、まだカサブタにもなっていない自我の赤い肉がそのまま、ウィグルのむき出しの肉に接したとき、世間一般の抗議とは全く別の個人的な戦争へ私を投げ出しました。心底、想像できないものの痛みを、白紙にどう書き出せばいいのか? 語れるものではなく、自分には真反対で語ることを向こう側から拒絶されるようなまなざしに対して、どう言葉を使えばいいのか? 失語症に陥ったのです。
大好きな女優は事務所と揉めて本名を名乗れなくなりました。本当の名をはぎ取られ失語症に陥った代わりに、のん、という白紙な名前で活動を続けています。私は彼女の映画をときどき見に行きます。スクリーン上での溌溂とした彼女の演技は改名騒ぎを感じさせないどころか、役柄の幅を広げ、新しい自我を獲得していっているように見えます。やがて映画が終わりエンドロールの「のん」という名前を見ると、騒動を思い出しやはり写っているものはすべて嘘だったと、ある種の気落ちをするのです。映画の中でどんなに真実らしいことが映っていたとしても、それは映像で切り抜かれ編集されたものであるなら、嘘なのでしょう。いかなるノンフィクションも例外なく、製作者のメルヘンになります。しかしこう考えてみることもできます。映画の中で起こることが全て嘘ならば、女優の彼女は実生活ではなく、自身をフィクションに賭けたのでしょう。騒動で自身の名前さえも言葉にできない失語症をいったんさておいて嘘を能弁に演じるとき、自分がどうであるかということより、どうなりたいかということに自分を切り開く可能性を見たのかもしれません。
私は能年玲奈にはなれません。ましてや鳥や蝶、自分には想定できない苦しみを生き抜く人にもなれません。ですが、それらの自我を着ることはできる。それがとんだメルヘンであっても。自分の描きだす現実が全くの本物として作用するとは、てんで思っていない。かといって、まったくの事実無根ではない。現実でも架空でもないメルヘン、第三の領域を描くことでしか、語ることのできないものの前で失語を解消する方法はないのです。
誰かが飽きて脱皮した自我を下北沢で見つけて、自分の新しい自我にします。前の持ち主が透けてみえる古着は私にとって、まだみぬ白紙。タブラ・ラサ。ラテン語で何も書かれていない書き板という意味です。それは真新しいものという意味ではなく、いままでいくつも書き重ねては消されてきた記憶を持っている白紙です。誰かの匂いが古着屋のお香で消された古着。擦れた袖元。引っ掻いたような青ボールペンの跡。ポケットから出てきたレシート。いくつかの細部を手繰り寄せて、メルヘンを立ち上がらせるように私は元の持ち主がどんな人であったか想像します。これだけ着られる服があれば、今年の夏もどうにかなるでしょう。
P.S
筆名を一字改め、宗沢香音になりました。これからもよろしくお願いします。
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