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宗沢香音様
高校二年のとき、髪をばっさり切りました。それまではずっと肩につかないくらいのボブだったのを、ベリーショートに。クラスメイトはすこし驚きながらも、ああ、似合うね。と言ってくれました。
これというきっかけはなかったけれど、いろいろつもりつもっていたんだと思います。スカートの丈はひざ下二センチ、ブラウスの第一ボタンはしめること、という服装規定。戦前創立の女学校で、お茶とお琴の授業があるような、あいさつで「ごきげんよう」と言うような学校でした。
いいお嫁さん・いいお嬢さんになるための学校という伝統的な面と、自立した女性の育成を是とする進学校としての今の校風のジレンマを生徒たちも感じ取っていたんだと思います。私はある時とつぜん「やってらんねーな」と思ってしまいました。学校のことは好きです、今も。でも、学校が私たちを「どうしようと思っているのか」を察してしまう瞬間があり、それが蓄積されたという感じでした。
プールの授業の後にタオルを首にかけて髪の水気をきりながら教室に戻る子がいました。それを見とがめた先生がとても怖い顔をして「そのような恰好で人前に出てはいけません。水商売の女性のように見えますよ」と言ったのです。私たちは「水商売の女性」を知らない、またはなにがわるいのかわからず、きょとんとしてしまいましたが、先生はその人たちを蔑んでいるんだということだけはっきりわかりました。
あとおぼえているのは、音楽の授業中にオードリー・ヘップバーン主演の「マイ・フェア・レディ」を見せられたこと。花売りの町娘イライザが、「半年あれば粗暴な町娘を立派なレディに教育し直せるのか」という下卑た賭けにのった言語学者ヒギンズに言葉遣いや礼儀作法を「矯正」され、みごと作法を身につけた二人が最終的に結ばれる話です。歌は素敵だったし綺麗な恰好のオードリーをたくさん見られるのも良かったけれど、ふうん、という思いでした。
のちにはたちを超えてから「あの結末はおかしい。ヒギンズは捨てられるべきだった」と文句を言っている人の話を聞いて、ああたしかに、と思いました。
たった半年で内面も所作も磨きあげることに成功したのは言語学者の手腕ではなく、イライザの努力と飲み込みのはやさゆえなのでは。そんな聡明な彼女が、自分をつかって賭けをするような男に恋するだろうか。「ふうん」の中に入っていた疑問が姿をとりました。なにより、都内の私立中高一貫の女子校という金魚の養殖プールみたいな場所で、そういう映画を見せることのなにかつまらなさ。色々なことがつながって形をとって、私はこのミュージカルを一時期まったく好きではありませんでした。
自分が女らしく振る舞うこと自体にたえられなくなってしまい、Tシャツとジーンズ、うなじを刈り上げるほどの短髪、スニーカーでしか行動できなくなったのは思い返せば「マイ・フェア・レディ」を観た頃からでした。
大切にしなさいとただの石を抱かされていた気分だったように思います。いらない荷物を持たされてそのせいでよろよろ歩いているのを、勝手にばかにされたり利用されたり憐れまれたりしたと、そんな目で見るな、という怒りで心がいっぱいになって夢中で髪を切りました。美容室ではひよって少ししか切ってくれないので、もっとお願いします、もっと、大丈夫です、とくりかえし、家でも自分で切りました。
今思えば自分とちがう属性の真似をしたところでなにも解決していない、ってわかるんですが、当時はほかにやりようがなかった。少年漫画を読み漁り、大きな声で笑うように心がけました。男友達とラーメン屋で辛いラーメンを食べたりとかも。
そしてわりと序盤で気づいたのですが、かなしいことに、私はTシャツもジーンズも絶望的に似合わない。私は首から鎖骨が薄く、下にいくにしたがってまるみのある体型をしています。一番似合うのは襟のついたブラウスと、脚にはりつくような形をしたスカート。履くとすごく歩きにくいやつ。それに気づいたときはこの世の終わりの気分でした。私が一番着たくないのはそういう、座ってニコニコしてることが前提で作られた服なのに! と。
でも似合わない服って、気づいてしまうとほんとに毎分毎秒、似合わないんですよね。鏡を見る度に自分を否定されるような心地で、まあ多分ほかにもなにか心気症の原因はいくつかあったんだろうけれど、着替えたけれど外に出られなくて玄関で靴を選び続けるとか、電車を途中で降りて用事の途中で帰っちゃうなんて日もありました。
かのんちゃんからの手紙を読んで、そういう日々のことを思い出しました。真逆の方向から同じ一点に向かって歩いて、おなじどん詰まりにいたような、そんな感じを受けました。こんなことを言うのはおかしいかもしれないけれど、ありがとう。
でもいま私は仕事で、かかとの上がった靴とぴったりしたスカートを履いています。自分でもおどろきです、いまはまったくそれが嫌ではないのです。数年前には想像もできなかったその装いがなぜ受け入れられるのかというと、そういう恰好をしていると相手が安心してくれるのがはっきりわかるから、です。私がすこし歩きにくくなるだけで、人が安心し心に余裕ができるなら、なにもかも些末な問題だと、急にそんなふうに思えたのでした。きっかけはやっぱりまた「マイ・フェア・レディ」で、日本公演でイライザを演じた大地真央のインタビューを読む機会があったことです。彼女はそこで、ヒギンズと知り合う前からイライザの美意識が高かったことを示す演技をこころがけたと語っていました。花籠をもって街角に立っているときでも、髪が乱れたら直し、顔にはねた泥をショーウィンドウに自分をうつしながらぬぐう仕草などをオリジナルで取り入れた、と。
私はこの演技の解釈にはっとしました。自分が目指す場所へ行くためにイライザもまたヒギンズを利用していた、とうけとめるならば、そのようなお互いの損得勘定をはずれて心のまま惹かれあうというラストを好きになり直せるかもしれない。もっと迎えに行ったことを言うなら、彼女はもともと気高く完璧なレディで、だれにでもわかりうる姿をとって降臨したのだと。傲慢で支配的なところがあるけれどまあ邪悪ではない中年学者のいいところを発見して、愛したくなれるほどおなじ目線の地平へ。ガラスにうつる自分の姿に怒りとなさけなさを覚えたことのある者は――そうである人ばかりのこの世、と思っていますが――、もうすでにどのようにも美しいのではと、そんなおおざっぱなことまで考えたのでした。さんざんふりまわされたあとにつけるおとしどころとしてはあまりに能天気で、ちょっとばかみたいだけど気に入っています。
読んでくれてありがとう。それではまたお暇なときに、お返事まってます。
関寧花
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